氷上回廊とは
2万5千年前から、人々に愛された地。
旧石器時代後期、狩猟採集の時代から、人々はここに住み続けてきました。
氷河期が終わり、温暖な農耕の時代へと移りかわっても…
太古の昔から、脈々と
氷上回廊(ひかみかいろう)の中心である兵庫県丹波市氷上町(ひかみちょう)石生(いそう)周辺では、発掘調査から少なくとも今から2万5千年以上前、 旧石器時代の後期には既に私たちの祖先が暮らしていたことがわかっています。
例えば、兵庫県丹波市春日町の七日市遺跡(なぬかいちいせき)は、旧石器時代後期から奈良・平安時代にかけての国内でも有数の複合遺跡(複数の時代の遺物が重なっている遺跡)です。
旧石器時代後期、今より遥かに寒冷な時代(氷期)、氷上回廊周辺はナウマンゾウ(今は絶滅した象)などの大型動物が季節移動する、生きものたちの通り道だったと考えられています。
人々は周囲に広がる森や川や草原で、豊かな狩猟採集生活を営んでいたようです。
丹波市七日市遺跡付近でのナウマン象の狩猟
人は生きのびるため、厳しい自然環境の変化に対応して、そのくらしを変えていきました。
3万年前の秋の終わり、今の兵庫県丹波市春日町あたりでキャンプをする人たちがいました。 ナウマンゾウの群れを待ち伏せする旧石器人です。
ここは北と南をつなぐ道。冬を暖かい南の地ですごすゾウの群れが毎年、秋に通ります。 人びとは群れからはぐれたゾウを沼地へと追いこみ、沼地にはまったゾウが弱るのを待ち、動けなくなったところでおそいかかります。
ゾウは最後の力をふりしぼって暴れますが、勇敢なハンターがとどめをさします。
そして、ゾウを手際よく解体するとキャンプ地へ持ち帰り、自然の恵みに感謝しながら肉を食べ、骨も加工してむだなく利用しました。
※「兵庫県立考古博物館コンセントブック」より引用
穀倉地帯、交通の要衝として
やがて時代が下って温暖な稲作の時代に入ると、氷上回廊付近の低地は良好な水田地帯となりました。 森からの豊かな水や木材、山の幸などに支えられて多くの人々が暮らしました。
丹波市氷上町市辺(いちべ)や本郷(ほんごう)と呼ばれる地域の周辺には、今も奈良時代の条里制(ある範囲の土地を約109m間隔で直角に交わる方格線により正方形に区分する土地区画制度)の名残である道路が、水田地帯に数多く残っています。
※市辺遺跡は弥生時代から鎌倉時代にかけての複合遺跡と推定されていますが、特に奈良時代の遺跡からは大規模な建築物跡や公的文書と見られる木簡が発見されており、この地が交通の要衝として栄えていたことを物語っています。
戦乱の歴史と庶民
また、豊かな土壌と豊富な水に支えられたこの地域は、時代の節目ごとにしばしば戦乱にも巻き込まれ、歴史にも記録が残っています。
特に戦国時代は、播磨の赤松氏、丹波の波多野氏・赤井氏(荻野氏)、摂津の松永氏などの勢力争いの渦中にあり、明智光秀の丹波攻めや、春日局(徳川3代将軍・家光の乳母)の出身地、黒井城興禅寺があったことなどでも知られています。
しかし、むしろこの地域の豊かさの本質は、この地域の気候風土の中にあって歴史に名を残さない庶民の日々の営みの中で培われてきたものでしょう。