丹波の恵みを語る
丹波をテーマに関連のある方々へのインタビューやエッセイをご紹介。
丹波への思いや、かかわりについて語っていただきます。
色々な方々の目に映る様々な角度からの魅力をお楽しみ下さい。
原風景としての丹波
先生は、丹波ご出身だそうですが、子供の頃の丹波の自然はどんな印象でしたか?
今でこそ「健康だけが取柄です」なんて冗談を言っていますが、子どもの頃はむしろ、私は病弱だったんです。
二つ上の兄が、わんぱく仲間と元気に外を出歩いていた間、私は家の中で、おふくろの後ばかりついて歩いていました。
意外です!
逆に、それだからこそでしょうね、おふくろはよく、季節ごとに意識的に外に連れ出してくれました。
春になればツクシを摘みにいったり、野草摘みをしたり、今で言う、里地、里山での、生き物たちとふれあいながらの暮らしは、そんな形でさせてもらいました。それが、強い幼児体験になっているのだと思います。
ピクニックは、神秘への扉
余談ですが、外国の植物研究者と話しをしていますとね、大抵、同じように、母や姉や叔母たちに連れられて、よく野山にピクニックに出かけた といいます。
そこで野の花の美しさを教えられたことに感動したのが、植物に興味を持つきっかけだったというんです。
不思議と女性に連れられての原体験を語る方が多いんですよね。なぜか、男性の名前は出ない(笑)。
欧米では、学者だけでなく、裁判官や実業家のような人たちでも、そんな原体験をきっかけに植物や自然に深い興味を持つ人が多く居て、リタイア後に素晴らしい論文を書いたりしているんです。
子供の頃の経験って、社会に出てもしっかり残るんですね。特に、女性たちの影響が絶大(笑)。
その意味で、お母さんやお姉さんたちが、ごく普通に子供と一緒に自然と親しむことは、とても大事ですね。
進路の希望は、医学から植物学へ
中学、高校へと進んでいく中で、友達と一緒に丹波地域の植物に興味を持つようになったのですが、進路という意味では、自分のいのちを何度も救ってくれた医学を目指していました。
地元の柏原高校では、伝統ある‘生物班’に入ったのですが、それも実は、医学の入り口になるような、顕微鏡の観察なんかをできると思い込んでいたからなんです。
実際は随分違って、優秀な先輩たちに囲まれて、私も野山で植物を調べて「柏原町におけるシダ植物の探求(※)」なんて文章を書いていました(笑)。
※柏原(かいばら)町は、現在の丹波市柏原町
大学一年生の頃、植物学の先生からゼミに誘っていただいたんですが、当初は、半ば呑み会が楽しみで参加していました(笑)。
そのうちに、素晴らしいナチュラリストの方々が生で語ってくださるお話しに惹きこまれて、いのちの源である、生物の多様さを探求する仕事の大切さに気づき、 植物分類学をめざすようになったわけです。
夢を描くことこそ、大切
大学院の頃、いい仲間達に恵まれて、一緒に勉強していたのですが、その頃に私は、植物研究者としての‘二つの夢’を語っていたことをよく覚えています。
一つは、スマトラやボルネオといった、生物が極めて多様な地域で、思う存分、フィールドワークをしたい、という夢。
当時は、海外旅行自体が高いし難しい時代です。
もう一つは、「DNA(遺伝子)」という言葉が入った論文を書きたい、という夢でした。
当時は「これからは分子生物学の時代だ」と言われた頃で、実験室でDNAやタンパク質を扱う分子生物学と、野外で植物を研究する分類学は、かけ離れた世界といわれていました。
ひとつめの夢は、日本が急速に豊かになったこともあって、早くも1965年にはタイへ、1971年にはスマトラへ行って研究することができました。
もうひとつの夢も、バイオテクノロジーが飛躍的に発展したおかげで、優秀な弟子たちと共著で、DNAという言葉の入った論文をたくさん書き、社会に貢献することができました。
もちろん、いずれの夢も、私一人で叶えたわけではありません。
様々な社会情勢や、いろんな人たちに助けられて実現したわけですが、最初に私が‘二つの夢’を持たなければ、こうして実現することは絶対なかったわけです。
ですから、私はよく若い人たちに、‘夢を描け’と言います。
近頃は、今日(こんにち)のテーマばかりを考えて仕事をする人が増えていて、なかなか50年後を推定するということをしない。これは困ったことです。
夢の方向に向かって、今なにをするか、と考えることが大切だと思うんです。
温暖化と生物多様性
『地球温暖化』
地球規模で平均気温が次第に温暖になっていく状況。
最近100年間は、それ以前に比べて急速に地球温暖化が進んでいると考えられています。
『生物多様性』
地球上の生物が多種多様であること。
または、ある地域やある環境の中で、生物が多種多様であること。
現在、人間の活動の影響で、世界的に生物多様性が急速に失われつつあると考えられています。
今日の環境問題、地球温暖化と生物多様性についても、お考えをお聞かせください。
これは、今の私の夢、とも言えるのですが、世界中の研究者と一緒に、今、地球上にどれだけの生き物が居てどんな暮らしをしているのか、データベースをつくろうと努力しています。
その背景には、やはり危機感があります。
私たち研究者は、地球温暖化によって、生物多様性が大きな影響を受けつつあると、肌で感じています。
ところが、私たち人類は、そもそも、地球上にどれだけ多様な生き物が居るか、という点について、ほとんど知らないに等しい。
あまりにデータが少ないので、研究者がひしひし感じている変化を、なかなか‘科学的に証明’できないでいるのです。
現在、科学者が論文に記載して認知した生き物の種類は、150万~180万種程度だと言われていますが、実際には少なくとも1,000万種近く、研究者によっては、数千万種以上居ると考えています。
先生は著書の中で、稲作文化の水田という豊かな環境の中でも、新たな種が生まれていた、というご自身の研究結果を紹介されていましたね。
はい、私自身はそうした研究を通じて、最終的に1億種以上が居るのだという説を信じています。
そうして見ると、私たちが知りえている150万種や180万種という数字は、統計的に、まだあまりに少ないわけです。
でも、嘆いているわけにはいきません。
(生物多様性の衰退は)待ったなしの状況ですから、私たちの目の黒いうちに、なんとかしたいと思っています(笑)
私たち、若い世代も、もっともっと頑張らなければいけませんね。
万葉の昔からつづく里山
私たち、一般人に何ができるのか?と考えたとき、ひとつ、里山というテーマが見えてきました。
里山について、あらためて、その価値や魅力を教えてください。
日本の里山は、既に万葉集の歌にも詠まれている、素晴らしい景観です。
服部保氏の研究によると、万葉集では、人が利用する森、いわゆる里山を‘山’、それより手前の人が住むエリアを‘里’と呼び、里山の奥の野生生物の世界を‘奥山’と明確に呼びわけていました。
実は、このゾーニングは、最新の生態学をもとにユネスコが提唱した概念にぴったり合致しています。
これは世界自然遺産の考え方にも反映されているのですが、豊かな自然、生物多様性を守るためには、まず人が手をつけないコアエリア、つまり奥山を設定し、その対極の居住エリア、つまり里との間に、人が出入りしながら自然に配慮するバッファーゾーン、つまり里山にあたるものを設定するべきだ、としています。
科学が20世紀後半にやっとたどり着いたこのゾーニングの考え方を、日本は既に千数百年前に実践し、現在へと受け継いできたわけです。誰も生態学の知識なんてなかったわけですが。
その結果、日本には、豊かな生物多様性が、人々が暮らすすぐそばの里山の中に維持されてきました。
世界的にも珍しいことなんですね。
そう、たとえば最近、人と自然の博物館の服部保氏らと一緒に3年間ほど中国の照葉樹林の研究に行ったんですが、中国西南部の村に行くと、いかにも里山らしい景観があちこちにありました。
でも、それは、あくまでも点景で、ぽつぽつとある。
日本のように、列島全体が(面として)きっちりゾーニングされているわけじゃない。
その意味で、日本列島の奥山、里山、人里という区分は、世界的に珍しい成功事例だったといえます。
里山への誤解
その里山が荒れているわけですが、放っておけばいい、
という意見もききますね。
そう、でもそれは大きな間違いです。
あまり専門的な説明はここでは避けますが、実は、国会議員でも、里山の荒廃は放っておけばいい、と誤解されていた方もいらっしゃって、相談を受けたことがあります。
いわゆる里山が荒廃したことで、生物多様性にも農山村の暮らしにも、いろいろひずみが生じていますが、これをそのまま放置すると、どうなるのか?
里山が‘原生林’に戻るには、四百年くらいかかるといわれています。
少なくとも‘緑が濃い森’に戻るにも、百年かかるといわれているのです。
つまり、里山の荒廃を放っておくということは、最低でもこれから百年間、私たちが荒廃した里山とお付き合いしなければいけない、ということです。
それで安心して暮らせるのか、ということですよね。
ましてや、そこからさらに安定した原生林にもどるには、さらに二、三百年かかるわけです。
気の遠くなる話ですね。
新しい里山の姿
里山の重要性を再認識した気がしますが、具体的にはどうすればよいのでしょう?
まさか、今すぐ江戸時代の暮らしに戻って里山を活用する、というわけにもいきません。
もちろん、昔のような薪炭林、薪や炭を採集したりする里山は、ごく一部に残されるだけでしょう。
一方で、今、全国各地でさまざまな市民団体が里山再生に取り組んでいて、素晴らしい活動もたくさんありますね。
とても大事だと思います。
ただし、そうした市民活動は、都市近郊に限られるでしょう。
もっと広範囲な里山も含めて、いかに安全に、「荒廃した林を、安定した林に戻すか、生物多様性のひずみを修正するか」という点がこれからの課題だと思います。
その中で、たとえば、兵庫方式と呼ばれる方法も、とても素晴らしい手法のひとつです。
荒廃した里山の高木や低木を適度に間引いて活性化させる新しい里山の管理方法で、生態学者が調査・検証して、素晴らしい結果も出てきています。
実際、歩かせていただいたことがあります。
とても美しくて心地よい林ですね。野生の桜やツツジなどの四季の花々を楽しむ里山づくりをしていらっしゃいました。
レクリエーションや癒しといった魅力と、防災機能や生態系保全を兼ねた新しい里山像ですね。
そうです。
上手に森を活かしながら、全体としては、安定した森への移行を手助けしていくわけです。
もちろん、全く人為の影響がない原生林に移行することはできないかも知れませんが、人為の影響を多少受けながらも、森全体が、原生林に近い奥山から里への豊かなグラデーションになっている、そんなイメージですね。
なるほど。
心が、一番大切
でも、もっとも根本的な問題は、心だと思います。
心、といいますと?
私が子供の頃、ご飯粒なんかをこぼすと、よく祖母に「ああ、もったいない」と叱られました。
これは、何もご飯の二粒や三粒をケチって言っているわけではありません。
もったいない、というのは、自然を畏敬し、ご飯という恵みを分けてくれた自然に対して、粗末に扱って申し訳ない、と謝る気持ちです。
だから、祖母の場合、「もったいない」のあとに来る言葉は、「ナムアミダブツ」 だったのです、神仏に謝っていたわけですよね。
日本には、そうやって自然を畏れ敬う心が、つい最近までごく普通のこととして受け継がれていたわけで、そこでは、ゴミというものもなかった。
捨てるなんてトンデモナイことで、どんなものも必ず次の使い方を考えて、とことん生かして、最後は土に返すわけです。
そうして、おのずと、自然を破壊しすぎることにも歯止めがかかっていたのです。
逆に、ものの価値を全部お金で数えるようになってしまうと、とたんに、今儲からないものはムダだ、ゴミだ、ということになってしまう。
そうなると、50年先、100年先のために大切なことなんてものは、どうしても後回しになって、それよりも、今日明日食べていくことが大事だ、となりますよね。
孫、子の時代のことは、孫、子が考えればいい、なんて乱暴なことを言う人まで出てきますが、孫、子の時代に考えて間に合えばいいですが、環境問題については、その頃まで放っておいたら取り返しがつかないことになっているかも知れない。
やはり、今の世代が、孫、子を思って、どうにか考えることが大事です。
おっしゃるとおりですね。
もともと、日本の里山に豊かな自然が残されてきたのは、日本人が、自然を大事にする心を持ち、‘人と自然の共生’という概念を持っていたからです。
これからの時代にも、この‘人と自然の共生’というコンセプトを、私たちの暮らしの中で、いかにうまく引き継ぎ、未来へ伝えるか、ということが一番大切だと思います。
なるほど。単に自然環境を見るだけでなく、私たち自身の心のあり方も、見つめなおす必要がありますね。
丹波の年配の方々とお話ししていると、まだまだ、先生がおっしゃる大切な心が息づいていることを感じます。
私たちがそれをしっかり受け止め、子供たちへ伝えてくことが大切ですね。
とても貴重なお話しをありがとうございました。
岩槻邦男 プロフィール
兵庫県立人と自然の博物館名誉館長。1934年、丹波市(旧氷上郡柏原町) に生まれ、奥丹波の自然の中で幼少時代を過ごす。植物学者として、東・東南アジアをフィールドにシダ植物の分類研究を行なっており、温暖化や生態系保全に関する著書も多数。
京都大学大学院理学研究科(植物学専攻)修了、理学博士。京都大学教授、東京大学教授、理学部附属植物園長、立教大学教授、放送大学教授などを歴任。ユネスコ国内委員(自然科学小委員会委員長)、国立科学博物館評議員や、WWF-ジャパン常任理事などNGO・NPOの活動にも参画。
【著書】
「生命系-生物多様性の新しい考え」「シルクロ-ドの植物たち」 「文明が育てた植物たち」「植物からの警告」「シダ植物の自然史」 「日本の植物園」「温暖化と生物多様性」など多数。