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氷上回廊

丹波の恵みを語る

丹波をテーマに関連のある方々へのインタビューやエッセイをご紹介。
丹波への思いや、かかわりについて語っていただきます。
色々な方々の目に映る様々な角度からの魅力をお楽しみ下さい。

氷上回廊と生物多様性ー”人と自然の共生”を丹波の里山からー

日本列島は生物多様性ホットスポット

人間の世界では「多様性」の時代といわれる昨今ですが、生物の世界では「多様性」の危機にあるようですね。

1980年代、私は絶滅危惧種を手がかりに生物多様性の危機の問題を提起しました。これは国際的にはすでに問題になっていましたが、日本ではあまり話題になっていませんでした。
これまでに認知されているだけでも200万種くらいの生物がいるわけですから、生物多様性を一言で説明するのは大変難しいことですが、絶滅危惧種の問題は、パンダがいなくなるとかわいそうだとか、トキが危ないとか、きわめて情緒的に扱われることが多くなってきました。
しかし、私たちの立場からは、生物多様性が人為的な影響によっていかに危ない状態になっているかを示すモデルとして絶滅危惧種を位置づけ、例えば秋の七草のうち2種は危険な状態にあるという事実の科学的な認識に基づいて問題を提起しました。幸いマスコミにも取り上げていただき、絶滅危惧種問題は環境庁(現在は環境省)も対応してくれるようになりましたが、絶滅危惧種が生物多様性の問題を示すためのモデルだということを十分理解されず、私たちとしては隔靴掻痒(かっかそうよう※はがゆくもどかしいこと)の感があります。
ところで、日本列島は世界の工業先進国としては唯一、世界で30か所ほどある生物多様性のホットスポットに指定されています。
ホットスポットに認定された根拠の1つとして、『Flora of Japan』の科学的な記載があげられています。そういう基礎的なデータがきっちり整えられたことで日本列島の現状が認識され、ホットスポットとして国際的にも知られるようになりました。

『Flora of Japan』とは何ですか?

このところよく「腸内フローラ」という語を耳にしますが、どういう種類の植物(や菌類)が一定の地域内に生活しているのかを示すことを「Flora」といいます。
『Flora of Japan』は日本の植物のデータを総覧した書籍です。日本語にすると『日本植物誌』ということになります。もともとは江戸時代にやって来たスウェーデン人のトゥンベリー(ツンベルク)という優れた学者が1784年に最初の『Flora of Japan』を出しました。それで日本の植物が科学上は正確に知られるようになって、例えば中国の植物でも「japonica」という学名がついている種が結構ありますが、それは日本の方が研究が進んでいたからです。
2度目の『Flora of Japan』はご存じのシーボルトが書いています。3度目は京都大学や科学博物館で活躍された大井次三郎先生が1953年に日本語版を、1964年に英語版を刊行されました。
その後、しばらく刊行されていませんでしたが、今は1人では無理なので、私たち日本人の研究者がみんな一緒にやろうじゃないか、と声をかけてできたのが今回の『Flora of Japan』で、1993年から刊行を始め、2020年に四半世紀以上かかってやっと全4巻8冊が完結しました。

日本人の精神の根本とは

日本の生物多様性はホットスポットとして世界にも認められているということですが、その危機の背景に何があるのですか。

もともと日本人は人と自然の共生を上手に営みながら生きてきたわけです。里山が典型的な例といえるでしょう。ちなみに、「人と自然の共生」を英語では何というかご存じですか?

いいえ、ちょっと思い浮かびません。

そうでしょうね。なぜなら、英語にならない言葉だからです。「harmonious co-existence between nature and mankind」と無理に表現しても、ちゃんと意味をわかってくれる外国人は環境問題に強い人だけで、一般の人にはなかなか理解してもらえません。ちなみにこの英訳は、イギリスのキュー植物園の人たちにずいぶん時間をかけて説明し、英語としてそれで大丈夫だというお墨付きをもらった表現です。最近はヨーロッパの環境団体でもこの表現を使うところが出てきましたが、普通にはわかってもらえません。日本人ならたいていの人には納得していただけるのですが…。
それは、日本人が伝統的にそういう生活をしてきたからです。つまり日本人が、生物多様性をいかに上手に、いま流行の言葉ですと「持続的に」利用してきたか、ということです。
欧米の開発の仕方はきわめて侵略的で、要するに「あるのだからうまく利用したらいいじゃないか」という使い方です。一方で日本人は、神様から与えられた貴重な生きものを使うときには無駄に捨ててはいけない、つまり「もったいない精神」でものごとを大切にしましょう、という考えです。
ですから、うまいところだけでなく、うまみのないところも捨てずにどう上手に利用するか、ものを修理して大切に使うか、といったところが、外国よりも優れているのでしょう。それは日本が貧しかったからという見解もありますが、その要素があったとしても、ものを大切にしようという精神が日本人には大変強い。その精神は、生きものを大切にする、生きものと一緒に生きるという生き方を選んできたからではないでしょうか。
しかし、最近特に西洋的な、ものを効率的に経済的に使う、役に立たないものは気軽に捨てるという、自然を一方的に蚕食(さんしょく※蚕が桑の葉を食うように、他の領域を片端からだんだん侵していくこと)する生活が広がってきました。そうなると人為の圧力が増えていって、それではやりきれないと生物多様性がどんどん失われています。

温暖化の影響は明らか

温暖化と生物多様性の危機には関係があるのでしょうか。

1992年のリオデジャネイロの環境サミットで「気候変動枠組条約」と「生物多様性条約」の2つの国際条約が採択されました。「地球温暖化」と「生物多様性」という言葉がメディアに取り上げられるようになったのは、それがきっかけです。
幸い「地球温暖化」はわかりやすい言葉ですから、そちらの方は順調に浸透していますが、一方の「生物多様性」は、残念ながらあまり内容が理解されていないのが現状です。
地球温暖化の問題では、特にCO2との関わりを否定する人もいます。しかし、科学的には、こういう問題は実証が難しく、いろいろな傍証を集めて「これ以外に考えようがない」という詰め方しかできないですが、温暖化もCO2の影響も否定はできない。だからそれをコントロールしようじゃないかという方向性が、パリ条約などに実ってきています。日本もやっと菅政権でも考えられ、前向きになったので、どんどん進めてほしいと期待しています。ただ、経済的側面も含めて難しい問題もいろいろありますから、よほどみんなで、多少の犠牲は我慢してもやりましょう、という気にならないと、すんなりできるものではなく、相当の覚悟が必要です。
逆にいいますと、このまま放置しておくと何十年か後にはどうしょうもないような状況になることも、科学的に推測されるところです。1年2年の問題ではないので、私は自分の目の黒いうちは大丈夫だと思いますが、何十年後に元に戻れない状態まで落ち込んでしまうと手の打ちようがないので、そうならないように我々の世代は我々の世代の責任で取り組むべきだと思います。
その温暖化の影響は、生物多様性にはきわめて明瞭に現れています。考えてみればわかりますが、ある種の動物は温暖化が進めば涼しい方へ移動しますし、人間もエアコンを使ってコントロールして過ごせばいいですが、植物にとって「ちょっと暖かくなり過ぎたから北へ行こう!」というのは難しいことです。
植物も動物もそうですが、移住の仕方は種ごとに違います。ですからそのスピードも違います。サッサと行ったものと、遅れているものとの間に時間差ができて、それまで一緒にいた仲間が来てくれないから生きていけないということになって、時間をかけて仲間といい関係を構築していた生態系に亀裂が生じるという結果になります。
つまり、温暖化の影響で、いままで進化の結果安定してつくられていた多様な植生が維持できなくなるという側面を否定しきれないのです。ですから、温暖化は生物多様性にとってきわめて大きい影響があるものと、科学的には明快に指摘できます。
温暖化による生態系のバランスの崩壊は、日本でも起き始めている現象です。どんどん北へ移動している種も、同じ場所で息絶え絶えになっている植物も、そういう例は各地でいくつも挙げることができます。

もしも氷上回廊がなかったら…

生物多様性は私たちの生活や文化とどのように関わっているのでしょうか。

簡単にいえば、我々が万物の霊長だと偉そうな顔をしても、「生物の多様性」に恵まれた「自然との共生」をしないと、つまりほかの動物や植物がいなければ、生きていけないのです。それは食べものの問題だけでなく、例えば極端な例ですと、いま意識せずに呼吸をしていますが、植物がいなくなれば酸素がなくなってしまいます。我々が生物多様性の一部だというだけでなく、生物多様性と共存しているから生きているわけで、生物多様性が失われ崩れていくと、いずれ我々もやっていけなくなることは火を見るより明らかです。文化だって、それを支える人類がいなくなれば絶滅するだけのことです。

氷上回廊や水分れは生物多様性にどういう意味があるのですか。

先ほど生物の移住の話をしましたが、氷上回廊や水分れというのはその説明をするのに非常にありがたい場所です。
生物が移動するのに、高い山を越えて移動しようとすると、平地に住んでいた種が一度高い山の環境に適応、さらに山の向こうにおりてまたその環境に適応…というのはなかなか難しいです。
日本列島は中央に連なる山岳帯で日本海側・太平洋側に区切られていますが、動植物は水分れなどを利用して比較的安易に移動できます。日本列島がホットスポットになるくらい豊かな生物多様性に恵まれているのも、そういう環境があったからでしょう。そういう機能に貢献していた水分れが丹波市にあることを、自慢しても良いのではないかと思います。
もちろん私も子どもの頃はそういうことを知らず普通の分水界だと思っていましたから、友達と一緒に行って、あっちとこっちとで立小便して、お前のは日本海だ、俺のは太平洋だと遊んだ思い出くらいしかありませんけれど(笑)。生物学者になって、水分れはこんなにも貴重なものかと改めて痛感しているところです。

水分れがなければ、日本の生物多様性は違っていたかもしれないということですよね。

明らかに、水分れが日本アルプスみたいな山岳地帯だったら、日本海側と太平洋側がもっとはっきり区別された形になっていたでしょう。
ですから、丹波市にそういう素晴らしい氷上回廊や水分れがあることを大いに宣伝して、日本人に丹波がありがたい場所だとPRしていただきたいと思います。

失われつつあってはじめて言葉に

我々人間は、生物多様性のために何を大切にしていけばよいのでしょうか。

「人と自然の共生」という言葉は日本人なら誰でも理解できると申しましたが、そんなに古くからある言葉でなくて、1990年の大阪花博(国際花と緑の博覧会)のときにサブテーマのひとつとして使われ、それが時代に合っていたということもあって、その頃からしばしば使われるようになってきたものです。
 ところが、言葉というものは大変恐ろしいもので、本当に人と自然の共生が成り立っていた時代、歴史的にいうと弥生時代頃から日本人は上手にそういう生活型をつくっていたのですが、二千年も生きてきたのにそれを指す言葉がなかった。けれど、その言葉が使われるようになったのは、日本人が人と自然の共生を放棄するようになったからです。
 もうひとつ、人と自然に関わる言葉に「里山」があります。これも言葉自体は室町時代や江戸時代にもあったという研究がありますが、日本人が普通に使うようになったのはいつ頃だと思いますか?

中世か近世からですか?

実は、1960年代に京都大学におられた四手井綱英(しでいつなひで)という先生が「里山」という言葉を明確に提示して、京都大学の四手井一派の人たちが強力に里山が森林維持に大切なのだということを述べられ、それから普通にメディアにも取り上げられ、辞書にも収録されるようになったのです。
1960年代といいますと、エネルギー革命の時代です。私はよく覚えていますが、丹波でも石油ストーブが使われるようになった頃に重なります。つまり、薪炭材が使われなくなり、里山が人間生活と縁がなくなった時代です。私が丹波を離れたのは1953年ですが、幼い時にいろいろと楽しませてもらった丹波の里山も、その頃から人が出入りせずに寂れてきました。
これも二千年もの間、言葉は必要なかったですが、日本人の生活の非常に大切な拠り所であったものが必要なくなってきて、人々が放棄するようになってから、「里山」という言葉が盛んに使われるようになったのです。
ですから、残念ながら、とりわけ日本人がお金に目ざとくなってきて、安くて大量に手に入ればそれでいいという方向になってきたために、「人と自然の共生」という概念やライフスタイルが必要のないものであるかのように、残飯はたくさん捨てるし、川は汚すし、そういう生活を平気でやるようになったものですから、自然界に生きている多様な生物にとってはやっていられないという境地に追い込まれてきているわけです。
そのことを我々が十分に気付いていないことが一番怖ろしいことだと思います。
これは、確かに政策で正されないといけないこともありますが、それよりもっと大切なのは、自然がいかに貴重なものであって、いかに自分たちにとって大切なものであるかということを認識すること。基本的には自分たちの問題、日々の生活の問題であるということと理解すべきなのです。
ですから、そのためにもみんなが現状はどうなのかを正確に知ることからはじめないといけないのではないでしょうか。

故郷を離れても、ずっと丹波の人間

先生はいま、どのような夢をおもちでしょうか。

研究者として一番の夢は、もっともっと研究データを積み上げることですが、コロナ禍で研究場所が閉鎖されてオリジナルの仕事ができず、研究者としてはちょっと残念です。
もうひとつ。私は世界遺産選定の仕事にも関わっており、今は4名の有識者でグループを結成し、毎年1件、日本の候補を発信しようと活動しています。2020年度は日本遺産の第1号に指定された「近世日本の教育遺産群」を世界遺産にと動きました。
江戸時代は260年平和が続きましたが、野生種から飼育栽培動植物を作出するなど、日本の文化にとってきわめて大きな影響を与えた時代だと私は認識しています。また、鎖国により日本の科学は進歩しなかったといわれますが、実際には順調に進展しており、そのことを論文にもまとめています。
私は崇廣國民學校(現在の丹波市立崇広小学校)で学び、柏原藩陣屋の大手門を出入りして登校していました。その母校のルーツである柏原藩の崇廣館(そうこうかん)などが、江戸時代どういう意味をもっていたのかを調べましたが、江戸時代には「教育」はなかったという見解を得たのです。「教育」がなくとも、「学び」はありました。それが明治維新以降、富国強兵のための義務教育制度になったからあやしい方向に進んだのではないかと。江戸時代の「学び」は、寺子屋なども我々がイメージするのとは違うくらい多様性をもっていたようなのです。
そういったことの意味をもう一度問い直すことで、日本の自然環境が、人と自然の共生を生み出した日本文化をつくり、日本文化の多様性に対する対応の仕方に繋がっていったというストーリーを展開できるのではないかと。このように生物多様性の問題だけに閉じ込もらないで、さまざまな関わりの中で論じることもやっていきたい、生きている間は一日でもそういうことに光を当てることをしていきたいと思っています。
だいたい生きものは、自分の遺伝子を次世代に伝えればそれで死んでしまうのが普通です。しかし、人間は文化をもつようになってから寿命を意識し、長生きしたくなるようになったのです。
逆に、ヒトという種はほかの種と違って文化をもつようになり、文化は遺伝子のように親から子へ直接伝わるのではなく、情報を社会の中に蓄積して、社会の中で展開していくものです。
私は実物のアリストテレスやダ・ヴィンチと一度も会ったことはありませんが、文化のうちには彼らは「生きている」わけで、私は彼らに会っているのです。遺伝子を次世代に残してからも生きるのならば、自分の知的な貢献を社会に残していくことにもっと積極的でないといけないと思います。
何もアリストテレスやダ・ヴィンチのような偉人だけではありません。「おばあちゃんが言っていたから」というように、社会生活の中で生活の知恵というものを積み上げていく、そうすればおばあちゃんはまだ思い出のうちに「生きている」のです。
人がほかの生物と違う生き方をしているのはそういうことでしょうし、みなさんにもそういう生き方をしていただきたい。そして私も、息が続く限り文化に貢献していきたいというのが、いまの夢です。

最後に、故郷への思いを。

それは思い入れが他とは違います。いまもときどき丹波に帰りますし、私が役に立つことがあれば丹波のこととなったらやりたいという気になりますし、その気持ちの中に氷上回廊をもっと大きい声で宣伝してください、という思いもあります。 1953年に故郷を離れても、いまなお私は丹波の人間。横浜には住まわせてもらっているだけで、横浜の人間とはあまり意識していません。人間は、いや、生きものはみな、そういうものじゃないでしょうか。

(令和2年12月8日取材)

岩槻 邦男(いわつきくにお) プロフィール

兵庫県立人と自然の博物館名誉館長、東京大学名誉教授。1934年、丹波市(旧氷上郡柏原町) に生まれ、奥丹波の自然の中で幼少時代を過ごす。植物学者として、東・東南アジアをフィールドにシダ植物の分類研究を行なっており、温暖化や 生態系保全に関する著書も多数。
京都大学大学院理学研究科(植物学専攻)修了、理学博士。京都大学教授、東京大学教授、理学部附属植物園長、立教大学教授、放送大学教授などを歴任。ユネスコ国内委員(自然科学小委員会委員長)、国立科学博物館評議員や、WWF-ジャパン常任理事などNGO・NPOの活動にも参画。日本学士院エジンバラ公賞(1994年)、コスモス国際賞(2016年)などを受賞。文化功労者。

【著書】
「生命系-生物多様性の新しい考え」「シルクロ-ドの植物たち」 「文明が育てた植物たち」「植物からの警告」「シダ植物の自然史」 「日本の植物園」「温暖化と生物多様性」「新・植物とつきあう本」「ナチュラルヒストリー」など多数。