重要里地里山選定地とは
平安時代の延喜式によれば、遠阪峠は丹波国と但馬国の国境に接していることから、
山陰道(但馬街道)の通過地として人馬が往来し、
丹波国側の遠阪に「佐治(さじ)」(現在の兵庫県丹波市青垣町佐治)という駅家が、
但馬国側には「粟鹿(あわが)」(現在の兵庫県朝来市山東町粟鹿)という駅家が
あったとされます。
このあたりは「遠阪谷」とよばれてきましたが、この地域一帯を指す場合は「遠阪」、
最奥の峠を指す場合は「遠坂」と書き分けられていました。
- 交通の発展
- Transportation development
かつては丹波国(旧氷上郡)と但馬国(旧朝来郡)の国境であり、現在は丹波市と朝来市の市境となっています。また、北は千原峠を通じて京都府福知山市(旧夜久野町)に接しており、大阪・神戸、京都、日本海方面へほぼ等距離の位置関係にあります。
今出、遠阪、和田、徳畑の4集落からなる遠阪地区は、周囲を山々に囲まれ、加古川最上流域の支流・遠阪川が谷を形成し、その流れに沿って集落と田畑が点在しています。
近代になって遠阪峠には県道山東柏原線が通じるようになり、丹波と但馬を結ぶ重要な連絡路の一つでしたが、冬季は雪が深くしばしば通行不能となりました。
しかし、1977年(昭和52年)に兵庫県道路公社によって遠阪トンネルが開通し、遠阪峠の通年通行が可能となりました。 1982年(昭和57年)には国道427号となり、さらに1993年(平成5年)には国道483号との重複区間となった後、2006年(平成18年)に北近畿豊岡自動車道が開通し、交通の利便が大幅に向上しました。
- 暮らし
- LIFESTYLES
地域の人々は炊事に使う焚き付けや暖房に使う薪などの燃料、山菜や自然薯などの多くの自然の恵みを山々に求め、谷間の土地で田畑を耕す暮らしを続けてきました。
戦後になると、山々にスギやヒノキを植林して伐採する林業が発展したことから集落が賑わい、昭和30年代までこの辺りでは、生糸を採る「養蚕」が盛んで、周辺の山々の麓には蚕(かいこ)に与える桑の畑が点在しました。
このように古くから里山、農地、ため池、草原などの環境がモザイク状に存在し、農林業が行われてきた地域であり、山野には適度に人の手が入ることで良好な里地里山が形成されました。
- 遠阪の大地主
- MAJOR LANDOWNER IN TOZAKA
遠阪の大地主・生田家には、1800年(寛政12年)から1816年(文化13年)まで足かけ17年をかけて日本全国を測量し、正確な日本地図「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬とその一行を泊めてもてなしたとの記録が残っています。
街道沿いには遠阪峠の一服処として、旅人を相手にした店が建ち並んでいたことから、現在も家々には屋号が残り、かつての生業を伝えています。
また遠阪の集落には井戸が少なかったため、今出川や池から水を引いた「まち溝」があり、そこで炊事や洗濯、風呂水にも使いました。生田家には、屋敷の敷地内に引き込んだ「まち溝」が今も残っています。
- 遠阪地区の歴史的資源
- HISTORICAL RESOURCES IN THE TOZAKA AREA
熊野神社
亀山天皇の時代(1259年~1274年)の時代に、現在の社から2kmの所にある位知山の神籠り滝へ紀伊・熊野神社本宮より御分霊を勧請し、長禄3年(1459年)に現在地に遷座しました。
今出権現とも呼ばれ、古くから摂津、丹波、但馬諸国より「命の神」と崇められています。
遠阪城跡
足立遠政の三男・足立伊豆守遠高の居城で、三重の堀切と6ヵ所の建物跡が残っています。
天正7年(1579年)の丹波攻めでは、敵方・羽柴秀長に対して当時の城主・足立右近光永が善戦したものの、水を断たれて落城します。
生田家
遠阪の大地主の居宅。
江戸時代に正確な日本地図「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬が宿泊した本陣。
全国を測量する途上であった一行を泊めてもてなしたと伝えられています。